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森澄江さん 77歳(94年にペースメーカー)

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※情報は基本的に「ロハス・メディカル」本誌発行時点のものを掲載しております。特に監修者の肩書などは、変わっている可能性があります。

 岐阜県恵那市の森澄江さんは、曹洞宗・天長寺という歴史あるお寺の住職夫人。その人生は、全力疾走という表現がまさにピッタリです。
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 森さんは、刃物で有名な岐阜県関市に生まれました。家業は、軍人出入りの日本刀製作所。時代背景もあり、自然と愛国心の強い少女に育っていきました。
 女学生だった太平洋戦争中は、学徒動員で飛行機の部品工場へ。与えられた仕事は、同級生たちが旋盤で作る部品の寸法をノギスで検査する係。しかし当然と言えば当然ですが、驚くほど不合格品が多く「こんなことで、お国の役に立つのか」との思いから、従軍看護婦を志願しました。すぐ終戦になり、その時は傷痍軍人たちの後方治療施設である岐阜軍事保護院の最年少看護婦でした。
 家族からは家に戻って来るよう言われましたが、看護婦の勉強が面白くて、そのまま残って保健婦、助産婦の資格を取りました。5年後、三重県の鈴鹿逓信病院開設の際に請われて転勤、主に手術室や外科病棟の看護師として27歳まで働きました。時に患者の立場で医師と激しく衝突することもあり、また自分の担当中は死者を出さない、と仮眠を取らずに責任当直を続けていたら胸が苦しくなって倒れ1カ月入院したということもありました。
 男性と無闇に口をきいてはいけないと育てられ、謡曲や生け花、俳句、映画を楽しむ独身生活を謳歌していましたが、ある時、妙に人懐こく親分肌で年長者に臆面もなく話せる若者を紹介され、求婚されたので結婚することにしました。家庭に入ったら看護を最優先できないと考え、スッパリ看護婦も辞めました。
 でも、大阪の会社員と思っていた相手は、実は岐阜の禅寺の跡取り息子でした。普通なら驚くところ、森さん自身も、毎晩一家でお経をあげる家庭に育ったので、ご縁があったのだろうと考えたそうです。ただし、お寺に着いてみたら荒れ放題、雨漏り放題。初めて迎えた朝、布団の上に雪が積もっていました。
 旦那さんである住職の人柄もあり、すぐにお寺は文字通りの駆け込み寺となりました。高校生を預かって、落第しないよう奔走するようなことがよくありました。それだけでなく、真夜中にヤクザが来る、未婚の母が来る、夫の暴力から逃れた妻が来る、幼児2人を連れた母が来る......。その話を聴いたり、匿ったりしていて、夜中の3時にやっと洗い物ができる、そんな生活を毎日続けながら一女一男を育てました。さらに曹洞宗の梅花流御詠歌の師匠資格を取って檀家の人たちに教えたりもしています。
 また、子供や老人の交通事故多発に悩んだ市からの依頼で交通安全活動にも取り組みました。市内各地区の婦人たちで手分けして、登下校の時間に道路脇に立ち、横断する子供たちに、「はい手を上げて、右見て、左見て、もう一度右見て、サッサと渡る」と声をかけたり、マイク片手に地区住民へ交通安全を呼び掛けたり。71年に交通婦人の委嘱を受けてから、市や県の組織をつくり、昨年3月に県の交通安全婦人協議会会長を辞めるまで実に37年間。途中01年には交通安全功労者として総理官邸で表彰もされています。何度言い聞かせても左右確認しなかった腕白坊主が、小6の時から自発的にやるようになり、長じて警察官になったというのが自慢です。

ついに心臓が悲鳴を上げた

 睡眠を極限まで切り詰めての生活は、体には大きな負担だったのでしょう。毎朝とてもつらく、唸りながらでないと起き上がれない状態が何年も続きました。そしてついに94年の年明け早々、料理をしていたら立っていられないほど苦しくなったのです。脈を測ってみると、1分間に38回しかありません。不整脈の一種の徐脈で、恐らく心不全も起こしていたと思われます。
 翌朝一番に、かかりつけ医のところへ行きました。ベッドに横になったままの診察。医師は診断を下さず点滴だけで帰されました。横になると奈落の底に引きずり込まれるような感じがして、ほとんど一睡もできませんでした。意を決して、眠ってみたら、あまりの苦しさに胸をかきむしって目が覚めました。ついに、たまたま来寺していた御詠歌のお弟子さんに病院まで連れて行ってもらいました。
 着いた時には口もきけない状態でしたが、前夜にそれを予測し、日付と経過をメモ書きしてガウンのポケットに入れておいたので、それを医師に渡して迅速に処置してもらえました。ペースメーカーを植え込むことになり、手術が済んだら、青黒かった顔が、きれいなピンク色に戻っていました。
 実は10日後に総務省の会議で東京まで行かなければならないことになっていました。必死にリハビリして許可が出ましたが、帰りの東京駅でお土産を買ったところで重いものが持てなくなったことを自覚しました。
「お陰さまで命を再びいただきました。ペースメーカーを思いついた方、そして今も研究・製造・管理にかかわっている多くの方に心から感謝申し上げたい、と事あるごとにお話ししています」
 手術からもう14年半、途中で住職が先に逝き、今は息子さんが若住職として跡を継いでいます。

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