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小林類さん 27歳(生後40日でペースメーカー)
※情報は基本的に「ロハス・メディカル」本誌発行時点のものを掲載しております。特に監修者の肩書などは、変わっている可能性があります。
東京都東村山市の小林類さんは、現在、医療機器販売会社の営業マンとしてハードな毎日を送っています。そんな風には全然見えませんが、実は生後間もなくに、命にかかわるような重大な心臓疾患を2度も経験しています。
(写真)休日は、酒を飲むか、サッカーや野球をするか、勉強する、だそうです。
小林さんの担当は、埼玉県内の3つの基幹医療施設。取り扱っているのは、ペースメーカーや人工弁、人工血管などで、医師たちに商品の説明をするほか、手術予定が入ればメーカーまで商品を取りに行って納品し、施設から要請がある場合には手術に立ち会う。そんな仕事です。
両親と住む自宅から営業所まで1時間ほどかけて通勤し、そこから営業車に乗って出かけます。勤務は基本的に平日ですが、土曜日に呼び出されることや休日に学会や研究会が開かれることもあります。また、商品説明のために医師の手すきの時間を待ったりもするので、勤務時間はあってないようなものだと言います。でも、こんなハードな日々に、やり甲斐を強く感じています。
実は小林さん自身がペースメーカーの使用者なのです。その使用年数も半端ではありません。生後40日で植え込み手術を受けて以来、6~7年ごとに植え替え続けて、現在4代目。文字通り体の一部です。
小林さんは、1980年に自宅近くの病院で生まれました。しかし、チアノーゼが見られて、ミルクを飲まないうえに、心音もあまり聞こえないということで、すぐに東京女子医大第二病院(現在の同大学東医療センター)へ転院。そこで房室ブロックと診断され、腋の下にペースメーカーを埋め込むことになりました。
まだペースメーカーが最先端医療機器の時代。執刀医はペースメーカーの草分けとして知られる須磨幸蔵教授(現名誉教授)。研修医だった医師が部長を経て退任したとか、植え替えの度に機械が小さくなって位置も腹部、鎖骨上と動いて来たとか、まさにペースメーカーの歴史を体現しているような半生です。
途中、1歳の時には、もっと厄介な心臓疾患に遭います。ちょうど82年に流行の第一波が日本を襲った川崎病にかかってしまったのです。
川崎病とは、高熱が2~3週間続いたり手足の皮膚が赤く固くなったりするなど様々な症状を示す病気で、主に4歳以下の乳幼児に起こります。まだ原因は解明されていませんが、根本にあるのは全身の動脈の炎症と考えられ、何らかの感染症でないかとの説が有力です。重症の場合には、後遺症として、心臓の筋肉に酸素や栄養を送る冠状動脈が太くなったり、瘤(コブ)ができたりします。
小林さんの場合も、動脈瘤ができてしまったため、小さな体でそのバイパス手術を受けました。しかも、その川崎病が5歳の時にも再発し、小学校3年になるまで、ずっと入退院を繰り返す日々だったのです。
こんな状態ですから、学校も普通学級へと受け入れてはくれたものの、何かあったら大変ということで、体育は長らく見学だけでした。でも、友達は分け隔てなく接してくれて、遊びでは野球やサッカーを普通にやっていたので、特に他人との違いを意識したことはなかったそうです。
そんな小林さんが、自分の体のことを強く意識するようになったのは、大学卒業を控え、就職活動を始めてからでした。
最初は、マスコミや広告代理店など華やかな世界をめざして会社説明会に通ってみたものの、違和感を感じるようになったと言います。自分は一体何をしたいのだろうと自問した結果、医療関係の仕事をしたいな、自分の体験を生かせることをしたいな、という心の片隅に隠れていた気持ちに気づいたのです。
といっても特別扱いしてほしいのではありません。むしろ逆に、他の人と全く同じ仕事をさせてもらい、その中で自分の体験を生かしたいと望んだのです。だから、面接では自分の体のことを包み隠さず話しました。いくつか最終段階までいってから断られたり、内勤を採用条件にされたりするようなこともありましたが、幸い現在の会社では、社長が直々に「営業を」と言ってくれ、現在に至っています。
どんなに勉強しても、医師と話すのは難しくて、緊張するそうです。でも、手術の立ち会いをして、心筋梗塞などで本当に苦しそうな状態で運び込まれた人が、終わって手術室を出る時には、すっかり楽そうになっているのを見ると、本当にこの仕事をやっていて良かったと実感するのだと言います。
そして、その目には、ペースメーカーを入れたら人生何もできないと思いこんでいる人が多すぎると映り、正しい情報をもっと知ってほしいのだと言います。
取材は、土曜日の昼下がりに行いました。別れ際に、その後の予定を尋ねたら、「近くで学会をやっているので勉強してきます」と笑って、颯爽と遠ざかっていきました。