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パーキンソン病 檜垣朋子さん(48歳)

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※情報は基本的に「ロハス・メディカル」本誌発行時点のものを掲載しております。特に監修者の肩書などは、変わっている可能性があります。

*このコーナーでは、日本慢性疾患セルフマネジメント協会が行っているワークショップ(WS)を受講した患者さんたちの体験談をご紹介しています。同協会の連絡先は、03-5449-2317
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4年前にパーキンソン病と診断された檜垣さん。誰よりも心配し支えてくれた父親が2年前、より進行の早いパーキンソン症候群に襲われ、患者の気持ちと家族の気持ち、両方が分かるようになりました。

 ショーウインドーに映る自分の姿にハッとしたのは、04年の夏ごろのことだったと言います。大学時代は体育会テニス部の副キャプテン、社会人になってからも休みの日には山歩きをして、週に1度のバレエレッスン。脚力には自信があったのに、ウインドーに映った姿は、なぜか左足を引きずっていたのでした。そのまま冬になり、朝のゴミ出しの時に左腕が全く動いていないことに気づいて、またハッとしました。思い返すと1年ぐらい前から左肩に痛みがありました。
 一体何だろうと気にはなりましたが、始発で出勤してさらに残業しても休日出勤が必要になるというほど仕事が忙しかったこと、加えて、もし悪い病気だったらと怖かったことから、受診せずにいました。
 06年になって数カ月咳の止まらないことがありました。また、複数の親しい人たちから「左足をどうしたの?」と続けざまに尋ねられ、ようやく決心がついて3月に近所の総合病院を受診しました。最初は内科、ついで脳外科、神経内科と順々に巡り、パーキンソン病という病名を聞かされたのは8月、住んでいる神奈川県鎌倉市で『ぼんぼり祭』が開かれていた日でした。
 パーキンソン病は、脳の細胞が変性して、脳細胞で作る神経伝達物質のドーパミンが足りなくなり、体が震えたり、こわ張ったり、動かなくなったりする原因不明の進行性難病です。
 たまたま母方の祖父も患者で若干予備知識があったため、ショックを受けるよりはホッとしました。薬を飲めば何とかなるだろうと思ったからです。しかし医師は、いずれドーパミン補充薬は効かなくなるので、治療を始めるには若すぎる、とビタミン剤しか処方してくれませんでした。
 誰にも打ち明けないまま、同じように若年でパーキンソン病を発症した米俳優マイケル・J・フォックス氏の自伝『ラッキーマン』など関連の書籍を読みあさりました。フォックス氏の病を前向きに受け容れる態度に感銘を受けた反面、自らの先行きを示されたように感じて、気分は落ち込み、食欲がなくなりました。足の痛みも日に日に強くなりました。

父に導かれ、友の会へ

 1人で隠して生活していくのは無理だと悟り、上司に報告しました。また、父の修三さん(78)には言わないでと頼んで、母親に打ち明けました。かつて損害保険会社に勤務していた修三さんは、檜垣さんが就職活動するのを嫌って勤務先の関連会社に就職させたほどの人。檜垣さんの病を知れば、何か行動を起こすに決まっていました。さしあたって上司や母の勧めもあり、「違う病気であってほしい」と一縷の望みを託して順天堂大学附属順天堂医院を受診しました。しかし、診断が変わることはありませんました。
 子供の一大事を母が父に隠し通すはずもなく、修三さんは1人でパーキンソン病の猛勉強を始め、あちこちにコンタクトを取っていたようです。患者会である「全国パーキンソン病友の会」(09年5月号参照)に入るよう勧めてきました。でも朋子さんは、病状の進んだ人を見てショックを受けたくない、と頑なに拒み続けていました。
 しかし、何度も勧められるうち、徐々に心境に変化を兆していた檜垣さんは、翌07年3月、修三さんと2人で県の難病相談・支援センターに友の会役員でもある女性を訪ね、話を聴いてみることにしました。友の会創設メンバーだった夫を支え続け看送ったその人の話を聞いているうちに、なぜか涙が溢れてきて、自分でも驚きました。その女性から誘われて、7月に初めて友の会の交流会に参加しました。病歴の長い人たちも明るく過ごしているのに接して、ショックをうけるどころか逆に元気づけられました。ここに来れば心の支えになってくれる人がいて、自分の病気のことを気軽に話せる仲間がいるんだと思ったら、気持ちが明るくなってくるのを感じました。
 翌月、交流会で知り合った人から、いきなり「友の会県支部の役員になってほしい」とメールが来ました。若年の女性の声を会に反映してほしいとのことでした。会のことなど何も知りませんでしたが、交流会で感じた気持ちも後押しして、1週間ほど考え抜き、引き受けることにしました。
 同じころ勤務先の社内報で、障害者向け音楽コンクールのボランティアを募集していると知り、それにも応募してみました。生まれながらに障害があったり、幼いころか難病を抱えて生きている人たちの、やはり前向きな姿に接して、またも感銘を受けました。さらに、その時のボランティアのチーフから、イギリスではセルフマネジメントプログラムが有効に使われているという話を聴かされ、興味を持ちました。
  
司会の勉強狙ってワークショップへ

 友の会役員としての最初の仕事は、9月の交流会の手伝い。そして、すぐに11月の友の会文化祭の企画運営と出展でした。何も分からないまま少しでも役に立ちたいとやり遂げた時、思いがけず患者である会員や役員からお礼を言われ、仕事では感じたことのない充実感を覚えました。
 しかし相変わらず仕事は忙しく、友の会の活動に十分な時間が取れません。また、仕事を以前と同様に続けるにはどうしても薬の量を増やしていかざるを得ず、このままで大丈夫だろうかと不安もよぎりました。そこで08年6月、大学を卒業して以来23年続けてきた勤めを思い切って辞め、友の会の活動に専念することにしました。
 前後して友の会交流会のグループミーティングで司会進行の難しさを痛感、今後のためにも勉強をしたいと思い、セルフマネジメントプログラムのワークショップ(WS)を受講することにしました。
 WSは09年3月、東大で開かれました。ただし、WSを受けたからといって、司会進行に関して何か特別な技術を修得した気はしないと言います。むしろ、自分がセルフマネジメントをできていないことに気づかされ、病気との付き合い方を考え直せたことが大きな収穫でした。
 また、友の会には同年代の患者がほとんどいませんでしたが、WSで同年代の様々な疾患の患者たちと知り合い、自分とは異なる疾患を持つ人の苦しさや、逆に共通する悩みを持っていることを知り、さらに病気との折り合いの付け方が様々あると分かったことも発見でした。

父まさかの発症、介護する側へ

 檜垣さんに立ち直りのきっかけを与えてくれた修三さんでしたが、実は08年夏ごろからパーキンソン病とよく似た症状が出てきました。受診した結果は脳梗塞性パーキンソニズムといって、血管が詰まって脳細胞が死滅した結果として、ドーパミンが不足する病気でした。
 パーキンソン病よりずっと進行が早く、檜垣さんの状態を、あっという間に追い抜いていきました。今では足が出ない、嚥下がうまくできないという状態になっており、檜垣さんは自分が介護される側から、修三さんを介護する側になりました。
 こういう状態になってみて、患者も苦しいけれど、家族も苦しいんだということを心の底から実感したと言います。友の会で、今後は家族を支えるような活動もできたらいいなと考えています。
 そして、いつかは『ラッキーマン』のような自伝を書きたいと、日々感動したことを書き留めています。
 「私は、苦しんでいる時に助けてくれる人が多くて、本当に恵まれていました。助けてくださった人たちへの、感謝の気持ちを忘れたくないのです」

ワンポイントアドバイス(近藤房恵・米サミュエルメリット大学准教授) ワークショップでは、慢性の病気があっても運動をすることが重要であると学びます。運動は工夫次第でだれにでもできることです。体に無理なく、座ったまま、もしくは寝転んだままできる運動もあります。大事なことは、運動をする回数や程度、1日に運動する時間を考え、自分にあった適度な運動の計画を立てることです。目標としては、1日30分間の自分にとって無理なくできる運動を1週間に3 ~5日(1週間に120分程度)できるようになることですが、最初は1時間に1分の運動から始めることもできます。運動の程度が適度であるかを調べる方法や運動能力の向上を知る方法についても学びます。
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