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うつ病、線維筋痛症ほか 梅村紅美子さん(45歳)

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※情報は基本的に「ロハス・メディカル」本誌発行時点のものを掲載しております。特に監修者の肩書などは、変わっている可能性があります。

*このコーナーでは、日本慢性疾患セルフマネジメント協会が行っているワークショップ(WS)を受講した患者さんたちの体験談をご紹介しています。同協会の連絡先は、03-5449-2317
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 病院で働いていた梅村さんは、仕事こそ自分の存在価値と信じ極限まで無理を重ねてきました。今、ようやく患者として肩の力を抜くことができるようになりました。

 梅村さんは、労働運動に打ち込む両親のもとで育ち、気づけば自分も貧しい人の役に立つ仕事をしたいと考えるようになっていました。福祉系の大学へ進んだ学生時代は片道2時間を電車で通いながら、サークルや社会運動に取り組み、卒業式では代表として答辞を読みました。選んだ就職先は生協病院でした。
 中学・高校時代はバスケット部に所属し体力に自信もありましたが、今にして思えば大学時代から徐々に体を悪くしていたのかもしれません。子宮炎に苦しむようになり、就職3年目の89年には年に6回も入院しました。
 翌90年に結婚し、そのまた翌年には長女を身ごもりました。出産すれば子宮炎はよくなると聞かされていましたが、実際には帝王切開になってしまって子宮炎は治りませんでした。
 そのころ病院でしていた仕事は、保険請求用の会計入力です。人手が足りず、出産後2カ月で復帰して授乳しながら午後11時ごろまで残業を続けるようなことをしていたら、気づいた時には指がしびれ肩が動かなくなっていました。頸肩腕障害。これが最初の頑張って倒れる経験でしたが、1年3カ月の休職を経て復職してから6年は、庶務の仕事で比較的平穏に過ごしました。96年には長男にも恵まれました。

21世紀と共に激流に呑まれる

 取り巻く環境が大きく変わり始めたのは2000年になってからでした。病院に増改築計画が持ち上がり、その設計がスタートしようかという4月に昇進します。その途端に不眠に悩まされるようになりました。さらに2カ月後に、本部の専務が突然辞任し、玉突きで病院事務長と次長が本部へ異動したため、いきなり増改築を仕切る仕事を任されます。体力的にも家庭的にも無理だと言いましたが、「あなたならできる」と押し切られました。
 用地に余裕がないので5階に入院患者さんを入れたまま6階を削り取ったり、壁一枚隔てた隣を解体するといった曲芸のような工事を順ぐりに3年間続けました。上司である新任事務長が1か月でうつになり10カ月後には異動するほどの激務でした。梅村さんも、秋には子宮炎で入院し病室から出勤する羽目に陥りました。
 やがてうつ病を発症します。以来9年、1日たりとも睡眠薬なしに眠ったことがないと言います。
 でも梅村さんは常に笑顔なので、周囲からは深刻な状態と認識してもらえませんでした。実際には、外では笑顔でいようと思い詰めていたのであって、笑顔になれない時は外出できないだけのことでした。
 やっと増改築が終わったと思った03年6月、今度は地域医療連携室の立ち上げを任され、近隣の診療所を行脚するようになります。しかも、この時同時にケアマネージャーの資格にも挑戦していました。頑張った甲斐あって連携室立ち上げと資格の取得には成功しましたが、うつもどんどんひどくなりました。
 ひと段落ついたところで、しばらくゆっくりさせてもらうという約束をして、06年1月に同一法人内の診療所の居宅支援ケアマネージャーに異動しました。ところが、話の違うことに先任のケアマネージャーが3月までで辞めるというのです。折悪しく4月には、介護保険制度が始まってから最初の大改定があることになっていました。
 ベテランでも苦労するような非常時に、新米で管理責任者という立場になってしまったわけですから、明らかに無理があります。梅村さんの事情などお構いなしに、問い合わせやトラブル処理が次々と舞い込みます。
 3月ごろから、下半身を中心に全身のあちこちが冷たく痺れて耐え難いほど痛く感じるようになりました。自律神経もおかしくなったようで、暑くもないのに汗が出たり、めまいがしたりします。休むことは許されず、でも顔には笑みしか出てこないのです。一生懸命やっているのに仕事の能率は上がらず、深夜まで残業する日が続きました。ついに10月、精神科の主治医から3カ月の休みが必要という診断書を出されました。
 しかし、代わりの人が来るのを待ちつつフラフラの状態で働いているうちに年を越してしまい、07年1月、後任がしっかり定まらないまま傷病休暇に入りました。責任感の強い梅村さんとしては考えられないことでしたが、このままだと職場で死んでしまうと思ったそうです。
 休みには入ったものの、残してきた仕事のことが気になるし、後任者を手配してくれなかった職場に対する怒りは収まらないしで、横になっても体の緊張が解けません。しかも体の痛みの原因が何なのかの診断もつきません。
 翌年4月までに復職しないと自動退職になってしまう梅村さんにとって、原因が分からないというのは大問題でした。ちょうど、その年のはじめに線維筋痛症を患った女性アナウンサーが自殺するという出来事があり、自分もこの病気でないかと直感的に思いましたが、なかなか診断してくれる医療機関が見つからず、線維筋痛症に間違いないと確定するまで半年かかりました。

退職したくない 復帰への模索

 9月に線維筋痛症の治療を始め、少し良くなったかと思ったのも束の間、年が明けてまた痛みが出ました。このままでは退職に追い込まれる、そんな切羽詰まったドン底の気持ちでいる時にセルフマネジメントのプログラムを知ったのでした。
 同じ頃『仕事で燃えつきないために』という本と出会い、自分が燃え尽きたとも自覚しました。もっと頑張らなくちゃダメだとずっと思ってきたのが、もう頑張らなくてもいいんじゃないかと思うようになり始めていました。そして藁をもつかむ気持ちで、セルフマネジメントのワークショップ(WS)に参加しました。HIVの患者や薬害肝炎原告団の人など、いろいろな病気の人たちと出会い、悩みや気持ちを分かち合う中で『自分だけが苦しいんじゃない』という気持ちを持つと同時に、医療者として働く自分の職場が治療の場でもあったがために、自分が患者になり切れていなかったことにも気づきました。
 WSの中で、追い詰められた自分にもできるアクションプランを探して、達成すればできたね、良かったねと褒めてもらえて、とても嬉しかったそうです。そして、仕事を失ったら自分に価値がなくなるように思っていたけれど、『問題解決法』の最後の段階として『いまは解決できないけれど、また別の機会に取り組む課題としておいておく』という手段があることを学んで、気持ちがとても楽になったのだと言います。
 今、このプログラムを広めて、同じように苦しんでいる人を救うことが第二の天職だと思って、焦らずゆっくり活動を続けています。

ワンポイントアドバイス(近藤房恵・米サミュエルメリット大学准教授)  セルフマネジメントプログラムでは「慢性の病気を持つ人も、様々な生き方を選ぶことができる」という考えが根底にあります。例えば、今以上に病気の症状が増えてしまうとしても自己管理もせずに生きていく、というのもひとつの生き方です。また、別に、病気の自己管理をすることを自分で選んで、積極的に治療に参加し、体や心の問題に取り組んで、生活管理の責任を担い、病気とうまく付き合う方法を模索しながら、自分らしく日常生活を送るという生き方をすることもできます。ワークショップでは、後者の「積極的な自己管理者」になることを選んで生きていく上で、役に立つスキルを学んでいきます。
  • 患者と医療従事者の自律をサポートする医療と健康の院内情報誌 ロハス・メディカル
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