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山本郁子さん 52歳(06年に人工弁への置換)

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※情報は基本的に「ロハス・メディカル」本誌発行時点のものを掲載しております。特に監修者の肩書などは、変わっている可能性があります。

 東京都稲城市の山本郁子さんは、阪神大震災に遭遇したのを機に、急激に心臓が悪くなりました。それからの苦闘の日々は、家族の絆を確かめあう日々でもありました。
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 山本さんは現在、2歳上のご主人、26歳と22歳の息子さんの計4人で暮らしています。でも実は04年春に東京へ越してくるまで10年近く、仕事や学校の事情で家族離れ離れの生活をしていました。
 山本さんは、岡山県で2人姉妹の妹として生まれました。両親は洋品店、その後スーパーを営んでいました。東京の大学を卒業して郷里に戻っていたところ、母親どうしが同級生という縁で2歳上の男性を紹介されました。最初は気づかなかったものの、話してみると同じ高校のサッカー部の3年生と、その引退後に入った1年生のマネージャーでした。25歳になったところで結婚、新婚生活は西宮市で始め、翌年に長男、その4年後、次男に恵まれました。
 最初に体の異変を感じたのは、この辺りです。夜泣きの激しい次男を母乳で育てていたのと、活動的で目を離すとどこかへ行ってしまう長男の幼稚園入園とが重なり、よく眠れない日々が1年ほど続きました。胸が重いような違和感に、大学病院で検査を受けたところ「心臓の弁が欠け始めている」と言われました。
 実は、小学校1年生の時に溶連菌感染症で3カ月、小学校2年生の時にも再発して2カ月ほど、それぞれ入院したことがありました。当時は、この菌のことが余り知られておらず、風邪と診断されて長引いたのでした。治癒まで長引くと、後遺症として心臓弁などに障害の出ることが少なくありません。ただ、高校生の時は前述のように元気にマネージャー業をこなし、大学でも体育の授業を普通に受けて幼稚園教諭の免許も取得していましたので、本人に心臓が悪いという自覚はありませんでした。この時も、睡眠薬を使って眠るようにしたら、そのうち調子がよくなり、その後異常を感じることもなく平穏に過ごしていました。
 大きな転機は、95年1月の阪神淡路大震災。神戸市に新築したばかりの自宅で被災しました。震度6強。ドンと突き上げられると同時に家の中がガス臭くなり、その後はまるでジェットコースター。余震に脅え、ストレスからか、不整脈や過呼吸が頻繁に起こるようになりました。でも、ひどく被災された人たちのことを思うと救急車を呼べませんでした。

ギリギリまで内科治療で引っ張る。

 震災から1カ月半ほど経って世の中が平常に戻り始めたところで西宮時代のホームドクターに相談しました。たまたま西宮の病院にカテーテル治療の得意な安本均医師がいることが分かり受診しました。心臓の僧帽弁(左心房と左心室の間にある)が狭くなって、血液を十分に送り出せないようになっていました。その後ご主人は、東京、バンコクへと単身赴任。山本さんの体調は徐々に悪くなります。ベランダのある2階まで階段を昇れず、洗濯物を庭に干すようになりました。
 98年、自分と時々寝込む両親、大人3人いれば誰かが誰かの面倒をみられるのでないかと、次男を岡山の私立中学に進学させ、高校卒業まで6年間を実家で過ごすことにしました。この家は階段のこう配がきつく、たびたび次男に階段をおんぶをしてもらいました。岡山での治療は、安本医師が、倉敷中央病院の光藤和明医師(現副院長)に引き継いでくれました。長男は東京に進学して、ご主人と同居しました。
 1年後、カテーテルの先に付けた風船で弁を広げる「バルーン治療」をしました。何とか手術せずに済ませたいと思っていました。しかし次男が高校2年の時に、慢性の心房細動で緊急入院となりました。血栓のできる寸前でした。手足は冷たく、少し動いても息切れがして、どんどん全身がむくんでいきました。溜まった水分と運動不足で、体重は現在より12キロ重くなり、11号だった結婚指輪も最も膨らんだ時には17号でないと入らなくなっていました。手術を考えるように言われました。しかし山本さんは、次男の大学受験が済むまではと、ギリギリまで粘りました。
 手術をしたのは05年3月。1家4人が東京で一緒に暮らすようになり、そして次男の大学合格発表の直後でした。手術までの1年ほどの間、かなりの量の家事をご主人と息子さん2人がこなしてくれました。
 手術は、僧帽弁をブタ由来の生体弁に付け替えるのと、心房細動の原因となる電気信号異常を断ち切るメイズ手術と2つ同時でした。いろいろと調べた結果、大和成和病院の小坂眞一副院長(当時、現国際医療福祉大教授)に頼みました。
 山本さんは、万一の場合に備え、家族全員に手紙を書いてから病室を出たと言います。途中何度か目が覚めたような気もするのですが、ふと気がついたら翌朝。廊下を点滴のポールを持って歩いていました。「私、普通に歩いているわ」と朦朧とした頭で思いました。
 意識がハッキリしてくると、真っ白だった爪の色がピンクになっていました。足に触った旦那さんが「温かいよ」と言ってくれました。
 今、心配をかけてばかりだった両親を、時々でも自分が面倒みられるようになったことが何より嬉しく、また今まで行けなかった分、夫婦や家族でたくさん旅行に行くつもりだと言います。今年は、もう4回も行きました。
「平凡な主婦ですけど、その当たり前が幸せなんです。素晴らしいドクターたちとの出会い、そして家族に何より感謝しています」

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